トルストイの無抵抗主義

河瀨直美さんの東大の祝辞が物議を醸している。

河瀬さんが言いたいことが、誤解されてるような気がした。

河瀬さんに反論する記事をいくつか読んだけれど、

正義の定義にしても自国が侵略行為をする仮定にしても

狭く限定的に捉えられている気がして・・・。

うーん、なんでそうなるの、なんでそう受け取るの・・・と思う。

 

ちょっと話は反れるけど、

戦争と平和」の著書のトルストイのことを思い出した。

簡単に言うと、トルストイの考えは悪には無抵抗という考えです。

無抵抗とは、非暴力であって、何もしないことではないです。

無策ということでもないです。

無抵抗も何かをしていることと同様に行動の一つです。

動かないことも行動です。

兵役拒否であったり、海外移住であったり、論文を書くことであったり、

手紙を書くこともあります。

闘い方には暴力以外もありますよね。

運動ではなく、個人個人が考えてすることで、

暴力で殺されてしまうかもしれませんが、徹底して非暴力、無抵抗ということです。

 

私は、トルストイの考えに共感するのですが、いかがでしょうか。。

具体的に考えてみると、

私は、ロシアの侵略を否定します。私は人殺しを残虐行為を徹底して許せません。

ロシアの戦争行為を完全に否定する私は、その否定した行為をしません。

私は、防衛と攻撃はどう線引きしたらいいか分からないので。

たとえ、正当な理由があっても、私はロシア兵を殺せません。

いかなる理由あろうとも、徹底して人殺しを否定したい。

結果、無抵抗になるとなあと思います。

目には目を歯には歯をでは、恨みの連鎖が続き、戦争が次世代にも起こります。

完璧な暴力否定は、無抵抗になる。

 

ここで、河瀬さんが「ロシアの正義」について触れたと責められていることについて一言。

河瀬さんは、戦争する理由は、正義は、誰にでもあると言いたいんだと思います。

そして、みんな自分の正義については、信じていると。

自分の正義を貫けば、自分の国が正義を貫けば、他国を侵略する行為も正当化する恐

ろしさがあると。

皆さんも、もしロシア人だったら、プロパガンダに騙されて、プーチンの正義を信じて

いるかもしれないでしょ。同様に、ウクライナの正義もある。

この正義はいい、この正義は悪いというのは、主観。

正義を理由に戦争するのは、お互い様なんです。

つまり、日本が他国を侵略するという限定的な話ではなく、

そういった正義を貫く行為自体が問題だと思考の話をしているんじゃないでしょうか。

正義には正義で立ち向かっていいのでしょうかと言いたいのだと思います。

 

正義をかざせば、正当化のぶつけ合いで、他人から見れば、ひどい正義もある。

正義に倫理的かどうかとは関係ないので、正義は善でも悪でもない。

そもそも正義はjusticeで、「ちょうど」と言う意味ですから。

 

正義はもっていていいけれど、戦争したらだめだと思います。